豊臣秀吉の朝鮮出兵について(前編)

どうもスヤスヤ💤です。

 

最近めっきり寒くなって朝布団からすんなり出るのが難しいです。難しくないですか?困った生態です。

 

最近といえば某韓国アーティストグループ関連で何かと報道で騒がれていますね。

このブログでは政治的宗教的な話題は避けるコンセプトにしていますが、同じ日本人のファンが擁護していて「これは非常識だな」とだけ言っておきます。

義務教育の歴史の授業中、爆睡してたんですかね。

 

さて今回のテーマは<歴史の新解釈>です。

タイトルにありますとおり「豊臣秀吉朝鮮出兵について」をお話していきます!この読者様は豊臣秀吉についてはご存知かと思いますが一応簡単にご説明をさせて頂きます。

 


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(図:豊臣秀吉肖像画

豊臣秀吉(1537-1598)は戦国時代に愛知県の下層民の子どもとして生まれ、そこから仕え先を転々として最終的に戦国武将のひとり織田信長に仕えました。織田信長の死後は自身が権勢争いの末信長の地位を後継し、そして日本各地の戦国武将に打ち克ち全国統一を果たしました。統一後に秀吉は太閤検地や刀狩り令により国内の統合化を図りこれは後に江戸時代の政策の礎となりました。

 

歴史の教科書をなぞったような説明でサラッと言いましたが全国統一て凄くないですか?

 

だって日本各地の歴史ある名門武将(東北の伊達氏、関東の北条氏、中国の毛利氏、四国の長宗我部氏、九州の島津氏 etc.)とその家臣達がなんとしてでも自分たちの家族や土地を守ろうと必死ですよね。頭をフル回転させ体もムキムキに鍛えた武装集団が県単位で団結して抵抗しているのにも関わらず、秀吉は津波のようにそれらを飲み込んで自分のもとに降伏させています。

 

よくよく考えると秀吉のなした偉業は天才的というよりむしろ狂気的ですね。尋常ではないです。

 

そんな軍略・政略に長けた秀吉ですが晩年国内のみならずアジア(朝鮮・明)へ出兵します。しかし、この朝鮮出兵は和寇の海賊活動禁止による水軍軍事力低下や朝鮮水軍の名将・李舜臣の活躍により日本は海上戦に敗れてしまいます。 陸上戦では戦果をあげたものの如何せん征服戦争は長期戦であるため海上戦に敗れ補給路を絶たれた日本軍は朝鮮の首都漢城府を落とすものの芳しい戦果は得られず、結果的には豊臣政権の不信感による基盤の弱体化、最終的には鎖国国家へと向かいます。


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(図: 李舜臣肖像画

日本敗戦の理由は他にも朝鮮民衆のゲリラ化、全国統一後まもないため反乱鎮圧軍準備のため戦力を大きく向かわせることができなかったなどがあげられます。

 

100年以上戦乱の時代を続けた(戦馴れした)日本の武士達がなぜ、戦馴れしてない朝鮮出兵に失敗したかというとまとめると大軍勢による国外出兵を経験していないため兵站(補給路)の確保を予測出来なかったことが大きな要因と考えてほぼ間違いないでしょう。

 

しかし国外出兵よりは規模が小さいとはいえ、朝鮮兵より圧倒的に強い各地の日本武士団を次々に降伏させていった戦略眼のある秀吉がなぜ無謀とも思える朝鮮出兵を敢行していったのでしょうか?

 

ここまでは定説をならべました。

ここからは私の新解釈ですが、とりあえず前編はここらへんで…

続きはまた書きます!

 

 

ではまた✋